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日本の庭園

東大寺

<大仏殿>

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東大寺南大門
  かつての門は治承四年(一一八○ )般若寺と同じく平重衡軍勢の南都焼討にあい焼失した。
 俊乗房重源は大勧進職として全国を勧進する一方で、源頼朝公の援助も得て復興を進め分治元年(一一八五)には 後白河法皇を導師として大仏の開眼供養を 挙行、建久六年 (一一九五)には後鳥羽上皇や源頼朝公の臨席も得て大仏殿落慶供養を行った。
  さらに、建仁三年(一二○ 三)には後鳥羽上皇の行幸を得て東大寺総供養を行った。この重頼復興の大仏殿こそ、最大の大仏様建築であったが、永禄年間に兵火のため焼失した)現存の南 大門は重頼の東大寺復興を物語る唯一といってよい遺構で、本格的な大仏様建築としては、浄土寺浄土堂(兵庫県小野市浄谷町)と双壁を成すものである。
  五間三面、入母屋造。内部は吹き抜けで化粧屋根裏まで見通す構成となっていて、その直線的な美しさは堂々 たるものである。また天平期の基檀の上に建てられているようで、天平創建の雄大さが伺える。基壇の復興には伊派が加わっている。
  自然石の礎石上に立つとても太い一八本を数える円柱の垂直材に貫を通して頑丈に連結する構造となっており、その建築様式はそれまでの和様に対して天竺 様、または、重源復興の大仏殿に因んで大仏様と言われる。
<南大門>

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  また柱に直接肘木を差し込む挿肘木を六段も重ね、それ ぞれの肘木には大仏様の皿斗が置かれて上の肘木を受け、最上段の肘木で軒を支える出桁を 受ける。六手先と呼ばれ、強度を保つため手先どうしを三段の通肘木で連結する。
  それまでの和様建築には無かったこれらの構造は、これ程の大建築をいかに簡略化して工期を短縮し、而も強度を保つかという難問に対する画期的なエ夫で あったという。

<石獅子>

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  石獅子は現在南大門の北の間の網の中に雌雄一対安置されている。最初は中門に置かれていたと言うことであ る。
 伝えによると造立は建久七年(一一九六)に陳和卿とともに来朝した宋人石エの手による。石材の大理石も大陸から取り寄せたもので、もとは彩色されてい た。尾を足下に捲くのは宋風で、、須弥座形台石にも瑞雲、花弁、蓮弁等宋風の浮き彫りが施され華やかな特色が見られる。像高一八八m 。

  仁王像は鎌倉時代正治元年(一一九九)の作で我が国最大の木彫像である。 像高八・四m。何故か阿吽の位置 が逆になっている。またそれまでは吽形像は運慶作で、阿形像は快慶作とされていたが、近年の解体修理でその説が覆され、吽形像は大仏師定慶、湛慶で、阿形 像は大仏師運慶、快慶が関わったと言うことが分かったという。
<仁王像>

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鐘楼
離れて眺めると大変軒反りが美しく優雅で、近づいてみると重い鐘を支えるためのどっしりとした巨木の構造に圧倒される。特に虹梁は参加者を驚かせた。
  鎌倉時代承元年間(一二○ 七5 一○ )に重源の後大勧進職を務めた明庵栄西によって建てられたと伝えられる。
<鐘楼>

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<鐘楼の細部>

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 一間四方、単層、入母屋造、本瓦葺。四本の柱で鐘を支える形式の最も古い鐘楼である。大仏様の軸部を貫で繋ぐ構造だが、詰組等の組物、反り返る軒に禅宗 様に通じる特徴が見られ、禅宗様の先駆的建築として注目される。
<鐘楼の細部>

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<法華堂>

法華堂
 toudaiji07-thumb-300x200-138-thumb-300x200-139.jpg この堂は東大寺の創建より早い天平十二~十九年(七四○ ~四七)頃の創建と言われ、転害門や正倉院と同じく、南都焼討をまぬがれた奈良時代の貴重な建築である。
 本尊は不空絹索観音であることから、東大寺の前身といわれる金鐘寺時代には絹索堂と呼ばれていたが、毎年三月に法華会が行われたので三月堂と呼ばれるよ うになった。また、外観は一棟に見えるが、内部は後方の正堂部分と前方の礼堂の二つの部分から成っており、奈良時代には、別棟の双堂であった。
 現在の礼堂部分は鎌倉時代正治二年(一二○ ○ )に重源上人によって新造された建築で、その
後の修理で正堂とひとつづきの建物になった。
 側面から見ると軒をつなげた部分がよく分かる。また天平時代と鎌倉時代の建築を同時に見ることが出来るので、様式の違いを学ぶのに絶好の教材となった。
 肘木の笹繰の有無や間斗東の太さと長さのバランス、連子窓の高さや組子の太さと間隔、大瓶束の有無、亀腹の有無、長押構造と貫構造などが外観の印象にか なりの影響を与えることが分

かった。
<法華堂>

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つぎに三月堂形石燈龍 を見学した。法華堂正面に一基献燈形式で立つ、古式大和形式の名品である。
<三月堂形石燈籠>

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 三月堂とは、法華堂の別名である。竿には建長六年(一二五四)伊行末が奉献した旨が刻まれている。基礎は自然石から円形に八葉の反花を彫りだして おり古式である。
 竿は細長く三節で、美しいエンタシスを持ち締まりがある。六角形の中台には側面が現れ、蓮台式との節目にあたる時期の作と考えられる。火袋は大きく、連 子が彫ってあり古式である。笠は、軒反りが美しく、当時としては斬新な蕨手も力強さを偲ばせる。欠けや風化が多く痛々 しささえ感じるが、まだまだ凛として役目を果たしている。
<三月堂形石燈籠>

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[ 2010年3月22日 ]

般若寺 (奈良市般若寺町221)

この寺は飛鳥時代に高句麗僧慧灌法師によって開かれた。その後、聖武天皇の時、平城京の鬼門鎮護のために堂塔を造営されたと伝えられる。
 京都から奈良への要路に当たるため、源平の争乱に際し、平重衡の南都焼討にあい焼失したが、西大寺叡尊上人により、文殊菩薩の霊場として復興され、庶民 救済の文殊会を盛んに開くようになった。
十三重石塔 
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  十三重石塔は、高さ十四・二m と巨大で、日本で二番目に大きい作である。一番大きいのは、宇治川浮島の十三重の塔で、叡尊上人の発願により、般若寺より三十年ほど後に造られた。般若寺 にある十三重塔の作者は、南宋国明州(漸江省寧波)の石工伊行末で、建長五年(一二五三)の造立。第一重を大きく造る のは中国式だとゆうことだが、高さの割りに安定感があるのはそのせいだろうか。各重には控えめだが軒反りがあり、天に向かってそびえ立つ感じを演出してい ると思う。第一、四、七、十層に経巻や金銅仏が納入されていたという。塔身の四方仏も繊細に線刻してあり美しく、よく保存されている。
地面に降ろされた相輪部分 

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  相輪は落下、倒壊を避けるため、本物が地面に下ろしてある。現在上部に乗せられている相輪はセメント製の模作で、 色が違っている。そのおかげで本物の相輪を間近に見ることが出来た。九輪では、間の擦と呼ばれる部分が広く、しっかりと彫ってあるほど古式という傾向があ るそうだ。
椿山荘にある般若寺形石燈籠の本歌  

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   つぎに石燈龍を見た。日本庭園研究会の例会でも何度か取り上げられ、現在般若寺にある石燈籠は、般若寺形石燈龍の 模刻品であることは周知のことである。
  火袋の彫刻や格狭間が、東京都目白の椿山荘にある本歌燈龍とどれ程違うのか、拓本を使って比較しながら説明を受けた。確かに本歌の方が断然美しい。模 刻品は、相対的に太ったイメージになることが多いそうである。
本歌燈籠の火袋彫刻 

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笠塔婆   

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  つぎに笠塔婆 を見学した。伊行末の子息行吉が亡き父の供養と、母の息災延命を願って建立したものである。南北に並ペて二基立てられており、弘長元年(一二六一)の作 で、高さ四・八m もあり、巨大である。笠の軒反りが真反りで美しく、鎌倉中期以前の様式である。また、北塔に阿弥陀三尊、南塔には釈迦三尊の梵字が彫ってあるが、とても力 強い字彫りである。何度か倒れたらしく、補修してあるが、その立ち様は行吉の願の大きさを示すように思える。


楼門  

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 つぎに国宝に指定されている楼門を見学した。二重門の下重の屋根に代えて廻縁をめぐらすのが楼門の特徴である が、現存最古の楼門として知られる。下層は中央の柱を省いて桁行一間とし、上層は桁行三間となっている。
 全体に横幅に対して高さをより強調していて、軒反りも大変美しく立派な門である。下層上部梁にある板蟇股等、和様の細部をよく示しているが、木鼻にはこ の地方の特色である大仏様の影響が見られる。

 
[ 2010年3月22日 ]

酬恩庵(一休寺)  京都府京田辺市薪里ノ内102

かつての名は妙勝寺であり、鎌倉時代、臨済宗の高僧大応国師(南浦紹明)が中国の虚 堂和尚に禅を学び、帰朝後この地に禅の道場を建てたのが始めである。その後、元弘の戦火にかかり焼失、荒廃していたものを、室町時代の康正二年(一四五 六)に名僧一休禅師が宗祖の遺風を慕って再興し、師の恩にむくいる意味で酬恩庵と命名した。

ここでは、まず本堂を見学した。堂は、永享年間(一四二九~ 四○ )、室町幕府六代将軍、足利義教の帰依により建立された。入母屋造り槽皮葺で、内部には釈迦如来、文珠菩薩、普賢菩薩を祀り、山城、大和の禅宗様建築では 最も古いとされる。禅宗様建築の典型的な構造で、詰組の組物、一扇垂木の配された反りの強い軒、粽柱、木鼻、火頭窓、桟唐戸等が見られる。内部構造には蝦 虹梁も使われていて、多彩な装飾が見られる。

次ぎに方丈庭園 を見学した。一休没後、信長の寺領没収によって衰退、荒廃していたものを加賀藩主前田利常が慶安三年(一六五○ )に再興に着手し、この時に方丈庭も築造されたという。前田利常は、東京大学にある育徳園を造営した人物でもある。方丈庭園の作者は、松花堂昭乗、佐川田 喜六、石川丈山の合作ともいわれるが、松花堂昭乗は寛永十六年(一六三九)に亡くなっているので信用を欠くところがある。
方丈南庭は白砂敷きで、伝統的な手法が用いられている。南庭の背景には虎丘庵と寿塔の慈揚塔を望むことが出来る。照り起りの槽皮葺の屋根と軒反りの強い瓦 葺きの屋根が対照的である。

東庭は、土塀との間の細長い敷地に石組がある。細長い敷地がよく生かされており、石の据え方、配置から洗練された感覚を感じる。また、この庭は、大 徳寺本坊庭と同じで十六羅漢の石組とも呼ばれているそうだ。
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北庭が主庭で、枯滝、中島、三重の塔燈籠等で構成されている。枯滝石組の構成や石の立て方が大徳寺大仙院とよく似ていると感じたが、やはり作庭の参 考にしたのであろうか。中島の立石、枯滝石組はとても力強く、小規模ながら大変な名園であると思う。
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[ 2010年3月22日 ]


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